亡き子とともに生きる


私は一人娘を自死で亡くしました。

 20159月、この時、娘は32歳、麻酔科専門医であり、大学院医学研究科博士課程の2年生でもありました。

 麻酔科は6年の研修期間がありますが、5年目の勤務先だった或る大学病院で、悪性高熱症の患者さんと二度も出会いました。

 悪性高熱症とは、麻酔によって死に至ることもある難病です。この時は無事手術を終えることができましたが、娘は何としてもこの難病を解明したく、研修を終えると同時に大学院に入学しました。

 大学院生となり、研究医となっても、医師としての仕事をしなければなりませんでした。細胞を扱う実験ですので、一日も休むことなく研究室に通っていましたが、その労働時間は12時間を超えていました。毎週金曜日には静岡の病院に派遣されていましたので、その日の労働時間は新幹線での往復時間を入れると16時間を超えていたと思われます。あきらかに過重労働です。 

 麻酔科は細胞を扱いませんので、生理学教室との共同研究というかたちを取りましたが、それが仲間のいない孤独な研究の要因となりました。過重労働と孤独の日々が続く中、娘はついにウツ病を発症しました。研究開始から一年半の間、一日の休みもありませんでした。死の二日前まで……。

 

 

2015923日(水)

 起きて来ないので起こしに行くと、やつれきって苦しそうな表情をしている。一睡もしていないのだろう。体も痩せて薄くなっているのに初めて気づいた。

 なんと声をかければよいのか分からず黙っていると、娘は「体調が悪いので今日はラボには行かない」と言った。11時頃起きてごはんを食べ、夕方までずっと座椅子を倒して寝ていた。くたびれ果てているのだろう。今夕マンションに戻ると思っていたが明日帰ると言った。その方がよい。

 

  ○研究はやめてもよしと子に言ひぬ「独りぼつちが辛い」と聞きて 

   グレープフルーツおいしさうに食ぶる子を見つつ何やらほつとしてをり

 

 

 

924日(木)

 娘が21時前に電話してきた。19時に診療内科の予約を変更したので受信後そのまま帰ってきたそうだ。目覚ましで起きられないという話をしたら効き目の短い薬を処方してくれたが、薬局がしまっていてもらえなかったとのこと。

 明日は静岡で薬局には行けないだろうから、一日でも早く薬をのませたくて薬局はどこでもよいと言おうと電話したが、娘は鼻声だった。泣いていたのかと問うとそうだと言う。そして「独りぼっち、逃げ出したい、もう嫌だ」と泣き叫んだ。こんなに感情を露わにするのは初めてで私も驚き、「そんなこと言ってどうするの。先生たちの顔を潰してどうするの。そんな責任おかあさん負えないから、あんた一人で負いなさい」と怒鳴ってしまった。日出美は独りぼっちに我慢できないそうだ。お手洗いに行って戻ると電話は切れていた。二度電話したが出ない。

 午前1時過ぎ、メールが来た。「すみませんでした」とだけ書いてあったので、「おかあさんも言い過ぎました」と返した。「ごめんなさい」と入れたかったのだがそのままにした。明日(今夜)電話で謝ればよい。今朝は静岡行きで5時起きだろうに、今までずっと泣いていたのだろうか。

 

  ○いたはりの言葉にならぬ説教に電話のむかうの洟すする音

 

 

925日(金)

 どうすればよいのか分からない。ウツ病の人間を追い詰めてしまいそうな気がするが、いろいろ考えると情けなくなる。娘を励まそうと思っていろいろ言っているが、それが逆効果になっているようだし、私も空しくて腹が立ってくる。2145分頃電話したが出ない。電車の中だろうか、それとも実験中で手が離せないのか。

 

 ○幾度の電話にも出ぬ子のピッチにも出でざれば もしや死にてしまひしや

 

 

927日(日)

 日出美が925日夜、22時(推定)に亡くなった。2145分に電話して出なかったので、その直前に亡くなったのだろうか。

 24日の夜、私が二度目の電話でひどく怒ったことが娘を追い込んだのだろう。私が思っていた以上に娘の苦しみは深刻でどうにもならないものだったのだろう。笑顔も元気もなかったことを思い出す。私が殺したのだ。

 最期の日、毎週金曜日に通った静岡の病院で働いた。おそらく寝ないまま行ったのだろうが、予定どおりいくつかの手術を担当して幾人かの患者さんの命を救い、自分はその夜この世を去った。娘らしい責任の取り方をしたが、命の灯を燃やし尽くしての死だったのだろう。

 

  ○一睡もせぬまま静岡の病院にこの世の最期の仕事せし子よ

  ○己が仕事のけぢめをつけむと行きしならむけぢめをつけて自死したりけり

  ○我が言葉に死を決意せし娘かと悔やみて息のできぬほど泣けり

   ○一人娘はこの世ゆ去りて生くる甲斐すべて失くしし六十五歳

 

 

928日(月)

 研修医だったときお世話になったS先生がお焼香に来てくださった。「意地っ張り・熱心・いい加減にできない人・頑張り屋」などと褒めてくださった。私のことは「母は厳しかったが、それで今の私が在る」と言っていたそうだ。「いい加減な人ならこんなことにはならなかった。研究を止めてしまえばよかったのに」とおっしゃった。

 

 

  ○「いい加減な人ならば死なずに済んだ」とや 子はこの言葉いかに聞くらむ

 

 

101日(木)

 最期の電話が怒りの言葉だったことが申し訳なくて苦しい。娘の命を取り返したい。時間を巻き戻して24日の電話を消去したい。

 明後日の火葬のとき、あまりの悲しさで気が変になってしまいそうな気がするが、ちゃんとしていなければならぬ。

 

 

   ○日出美といふ人間の形ここに在りたましひ再びこの子に戻れ

 

 

108日(木)

 仕事の後、娘のマンションへ向かう。

 帰り際、床やドアを拭きあげ、リビングのドアに背中をつけて「日出美ちゃんの魂が残っているのなら私にもどりなさい」と両手を広げて言った。もしここに少しでも残っているのならかわいそうだからそうした。なんだかほっとした。これで日出美をすべて連れ帰れた気がする。持ち帰れない家具や洋服たちにも「今までありがとう」と礼を言ってきた。

 今日新宿で日出美の魂を全身で受け取ってきたから、私は生きられると思った。日出美は私の胎内に戻って一体化したような気がする。小さい頃甘やかさなかった分、これからいっぱい甘えさせよう。お骨を毎晩抱いてあげよう。いっぱいあやまっていっぱいお礼を言おう。

 

  ○子の部屋に行きて残れる魂を両手広げて受け取りにけり

  ○夜明け前の空見上ぐればオリオン座輝きてをり また冬が来る

 

 

2016321日(月)

庭の君子蘭が傷んだ葉の間から花を咲かせようとしている。私も頑張らなければならぬ。

 

  ○花として咲きたきやうに咲かむとする姿見よとふ君子蘭かな

 

 

622日(日)

 カウンセラーさんから、日出美が守ってくれていないと今頃は強制入院させられていると言われた。それだけ必死に守ってくれているのだろうし、私の状態も悪いのだろう。家の中でたくさん独り言を言って日出美と対話するようにも言われた。今の私は日出美の力がなければ生きていけない状態だ。

 

  ○子を亡くし苦しみ抜きし八カ月半 ウツ病の顔となりてをるなり

 

 

825日(木)

 日出美の遺影と向き合っていると、私も微笑んでいることに気づいた。それほどやさしくあたたかく娘は微笑んでいる。

「一日生きれば一日死に近づく」ことに気づいた。苦しくても今日を生きれば一日早く日出美の許に行ける。そう考えれば生きることも苦しくない。

 

 

   ○今日も一日生きて娘に一歩づつ近づきにけり明日もまた一歩

 

 

1119日(土)

 また階段から落ちた。今度は頭を怪我した。後頭部を20針余り、ホッチキスのようなもので留められたが、どうして落ちたのかまったく覚えていない。

 どうしてこんなことになったのだろう。自分でも分からない。109日の階段事故以来、眠れないので同じように薬を追加してのみ、それでも効かないとまたのんで、トイレの位置が分からなくなることが続いていた。落ちないように注意はしていたのだが、やはり薬のせいでもうろうとなっているのだ。

 

 

  ○階段事故繰り返しゐてウツ病の薬の副作用疑ふべきか

 

 

20171015日(日)

娘だけが信頼できる人間だった。母である私が支えてもらい、わがままを言わせてもらった。娘は私を愛していたからこそ心配をかけまいとして苦しみに耐え、32年の生涯を文字通り一生懸命に生きた。

 娘はいつも自分が我慢した。そして人を許し人の幸せを祈るやさしい人だった。いま、その愛の深さがしみじみ分かる。私の愛は娘の死後、ようやくまことの愛となった。

  

      ○まことなる愛を教へてくれし亡子()を我もまことの愛にて愛す

 

 

2018124日(水)

 S区の病院の看護師さんからいただいた送別ビデオの箱の中からカードが出てきた。「先生のおっとりとした笑顔が好きでした。和みました。先生といると安心して仕事ができました」と記してある。ありがたいことだ。皆さんから愛されていたのだろう。

 

  ○仕事中の娘のビデオ賜りぬピンクのキャップにピンクのマスク

 

 

623日(土)

 娘は過去の人ではない。今も私とともに生きて、命の灯を届けてくれている。生きてゆく道を照らしてくれている。娘と私はその灯でお互いを照らし合っている。

 

  ○亡き娘とともに生きをる精神の世界は深き愛に満ちたり

  ○亡き子より守られて生くる幸せをこの世にしかと詠ひとどめむ

 

 

 

『亡き子とともに生きるー自死遺族日記―』(仰木奈那子(おおぎななこ)著 

短歌研究社)より抜粋

 

 

 

2024827日火曜日、讀賣新聞の夕刊に下記の記事が掲載されました。

 『文科省は(中略)研究と診療が両立できる環境を早期に実現する。』

 

 研究医の働き方改革に関する記事ですが、研究と診療を両立できる環境が10年前に実現していたら、娘は今も研究を続けていたでしょうし、やさしいおかあさんにもなっていたことでしょう。